シン・春夏冬広場

楽しいことになんでもやっていこうっておもってますぜ。

寄り合い組織が必要なんではないだろうか

最近よく息子の散歩で公園に行く機会が増えた。公園って場所は公共の場所なんで、本来は色んな人に自由であるべき場所だ。息子と散歩をしながら、近所のおばちゃんと挨拶する機会が増えた。おじちゃん、おばちゃんが日向ぼっこをし、小さい子供が走り回っている。僕の息子は1才半くらいなので、まだ自由には歩き回れない。少しずつ歩けるようになってきている。

 

公園でサッカーをしている若者たちがいた。ゴールポストを設置し、公園のスペース全面を使ってサッカーをしていた。見た目は派手で、タンを吐きながらプレーに興じている。使っている言葉は日本語ではなかった。

 

正直コロナ下で公共の場が開かれなくなったからと言って小さい子供が集まる公園でサッカーをするという非常識な行為に腹が立った。そして何より日本人でないことに忌避感を抱いてしまった。自分は知らないうちに無意識の元では外国人を受け入れてなかったのだ。驚愕した。自分の仄暗い感情に気づいてしまったが、それはさておき日本人だろうが、外国人だろうがマナーを守るべきだが、公園というルールがあるような、ないような場所で、何を守れというのだろうか。予約はおそらく取れないし、まともに市にいうと練習できない状況なんだろう。ましてや外国人であれば日本のルールやコモンセンスに疎くて仕方がない。しかし、正義感にかられて文句をいうには、息子、嫁が標的にされそうで怖くて言えなかった。

 

公園のルールで調べると宇都宮市に関してはサッカーを禁じるとある。野球も同じだ。つまりやはり市に問い合わせても許可が降りないことがわかった。条例にもなっているようだ。ただ問題は外国人に限らず、さも当たり前のようにサッカーをする日本人もいる。何が問題なんだろうか。

 

○注意する人が不在

昔は見ず知らずのおせっかいなおばちゃんやおじちゃんが雷を落としたものである。サザエさんでも公園で野球をやって怒られる様が映されている。個人個人の社会的なつながりが薄れただけではなく、互いを警戒し合ういやな社会になってきてしまった。隣人を警戒し合うような世の中になってきてしまっているように思う。互いの心理安全性を保ちながら、過ごす手立てが必要に思う。それは寄り合いなど、周囲がみな知り合いという状況を作ることだと思う。

 

○ルールが存在することが認知されてない

ルールの認知は非常に難しい。その問題に抵触していると認知していなければ調べない。そもそもルールがあることすら知らなかったというのがざらなのではないか。昔は寄り合いなどがあってきっとその中でルールだったりマナーだったりが伝えられていたのだろう。寄り合いの中でしか周知はされない。

 

いまやこの寄り合い組織事態存在しているのかどうかわからない。何か困っていることや、マナー違反があったことなどが周知され、協力するような集まりが必要なのではないだろうか。子育てにしても、市に問い合わせなければならないが、互いにチャイルドシートをあげたり、ベッドをあげたりといった周りに親切にし合う場所があっても良いのではないかと思う。ただPTAのようになかば強制のようなことがあってはならない。金銭を必要としない組織であるべきで、自由に集まり、自由に過ごす場だ。

 

○罰則や警察による指導があるわけではない

ルールがあるからと言って、罰則があるわけではない。警察はいちいち介入しないし、刑事事件でもない。ただし、禁止されていること事態は通知されているため、禁止された状態で相手に怪我などをさせると、罰則が重くなる可能性が高い。知らなかったでは済まされないのだ。ルールを守る必要があるし、守らせてあげる必要がある。なので互いにルールがわかるような場所は必要なんではないだろうか。

 

○有料施設しかなく、全ての人に開かれていない

みんながみんな金銭に余裕があるわけではないから、必然的に有料施設しかないとルールを破ることになる。ルールを知っていて破るパターンと知らずに破るパターンがあるが、後者は結局前者に収まる。なぜなら、ルールを知らされて結局守るか破るしかないので、前者のパターンしか問題にならない。ルールを周知するのは問題としては別である。

 

近ごろ小学校や中学校の校庭が開放されてないと聞く。遊具による怪我や感染症対策など理由が様々あるため、明確な基準の元定められたものではないのではないだろうか。学校の校庭は広いため、サッカーや野球にとっては必要な設備だと思う。開放する条件や問い合わせ先は誰に聞く必要があるのかなど、知りたいときにわかるようになっていると助かる。全ての人に可能性が広がっている優しい社会がありがたい。

 

もしかして外国人の人は予約を取れないとかないよね?