シン・春夏冬広場

楽しいことになんでもやっていこうっておもってますぜ。

まとも人間になってつまらなくなるよりおかしな奴でも天才であってほしい

月曜のたわわの騒動がいまだにくすぶっている。沈静化に向かっている感じではあるので、掘り返していまさら何を書く必要があるのかと思ったが、作品の内容に対する批判が散見されるので、意見したい。前回の内容をかいつまんだ内容になる。

 

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作品の中身を叩くのは表現の自由への抑制

作品を批評するのは正しい姿なのだと思う。この作品がつまらない、面白い、次の展開がどうなる。そういったことを予測したり、作品の中に隠されたメッセージを探したりというのは、ファンにとっては楽しみの1つである。行き過ぎた作品の批判は場をしらけさせるので、ほとんど注目されないしひっそりと消えていく。そのはずなのだが、軒並み増えているのがおかしなところだ。

 

月曜のたわわの炎上で、1番問題視されているのは、広告内容、作品のタイトル、作品の内容に対する批判がされていることだ。公的機関である国連のUN Womenが広告に対する不適切な表現があるため、掲載基準を見直せという内容の声明があり話がややこしくなった。

 

この声明に対し、漫画家の赤松健さんが敏感に反応する。

note.com

 

広告、作品の内容、タイトルというのは表現の自由の1権利に該当する。作品の内容がいかがわしいだとか、表現が性的だとかいう部分に関しては、年齢制限のレイティングを行っており、法的に適法の範囲で作品を公開しているはずである。そのため、作品のタイトル、内部に関する批判は本来あるべきではない。出版社の年齢制限のレイティングがあまいという趣旨の内容に変更すべきで、作品そのものに対してうんぬんいうべきではない。

 

真面目な駄作者をつくってどうする

作者の発言や、言葉のチョイスを巡って、炎上騒動にも発展しているようだが、僕ははっきりいって漫画家や芸術家、歌手に対して一般的な良識を求めていない。まったく独断と偏見ではあるが、面白ければ正義だし、素晴らしければ他に何も求めていない。最低限の社会的ルールさえ守っていれば、一般常識というものから逸脱していて、奇妙に見えようと気にするところではないと思う。

 

犯罪を犯した人が個人の作品を描き、出版するということがある。こういった本に対してレーティングは特に設けられていない。だとしたら、なんなのか。人を殺したシーンが描写されていたり、生々しいセックスシーンが描写されていようと、読みたくない人は買わなければいいし、レイティングが必要なら設ければいい。しかし、リアルな犯罪の記録というのは、犯罪を犯した人にしかかけないし、性的なシーンなどもその人にしか表現できない。作品の前では、相手が犯罪者かどうかは些末な問題だろう。もちろん遺族の意見は必要だが、作品の収益はたいてい遺族への支払いに使われることになる。誤解がないように断ると、犯罪を正当化しているわけでもないし、作品のために犯罪を犯すのは言語道断だ。しかし、それはそれ、これはこれでしょう。

 

社会的ルールを守り、まじめにコツコツと働く社会の歯車のような生き方で、天才的な作品ができるのであれば言うことはないが、天才的な作品を作る人はおよそ太宰治のように僕らがまったく経験していないことを作品にしている。こういった人たちが社会的ルールに縛られ、僕のようにつまらん作品を書くよりは、多少おかしな表現や発言があろうと、魅力的な作品を作って欲しい。

 

世の中にはこういった多少変な人達にも寛容であってほしい。あまりにもバッファが少なく、ちょっとなにか起きたらすぐ炎上というのが多すぎる。