シン・春夏冬広場

楽しいことになんでもやっていこうっておもってますぜ。

言葉の全裸化 自分の内面をさらけ出す手法

ごきげんよう。お元気かしら。本日は趣向を変えて、女性として文章をかいてみるわね。いつだったか、幼いころに女性の話し方といっても、それはおねぇっていうのに近いのかしら、おねぇ言葉で話してみたら、意外と楽しかったのを思い出したの。自分と違う性を意識するって意外と面白いわ。皆さんも試してみてちょうだい。自分の中の男性部分をあきらめるというか、自分の内面を言葉の仮面を外してさらけ出すようで、自然と言葉が出てきたのは不思議な体験だったわ。いやだ。画面の向こう側を妄想しては駄目。筋骨隆々としたおっさんがちまちまちまちま女性言葉を書く姿を妄想しちゃだめよ。わらっちゃう。文章にすると案外ぎこちないものだけど、そういったことも含めて体験だと思うの。続けるわね。

 

自分の中にそういった感情があるのかもしれない。それは変身願望だったり、自分の内面を外に出したいという欲求といった形で表れていると思うの。そういったストレスのようなものが、自分の中にぞんがい蓄積しているものなのね。だからこそ、たまには自分の内面をさらけだして、デトックスが必要になるそう考えているのね。案外女性の書き方ってよくわからないわ。女性言葉で書けば女性になるわけではないもの。自分の中の性はつくづく男性なのね。女性のことを知りたいと思っても、女性にはなれない。女性のようにふるまいたいと考えても、女性にはなれない。なぜなら、彼女たちはきちんと女性社会を構築しているもの。女性の女性たるゆえんというのは何も肉体だけではないのね。心、社会性それらすべてがあって初めて女性なのだと思うの。男性が女性的にふるまったり、女性になりきったりというのは簡単には難しいと思うわ。ゲイの人たちはどちらなのかしら。男性的な社会構築なのか、それともやはりそこは女性的なのかとても興味深い。

 

自分の内面をさらけ出すというのは、案外難しいものね。いろいろな形で自分をどう表現するのか、自分を理解するというのは自分にとってはとても難しいものね。意外と第三者この場合は伴侶でない客観的に見てくれる人のほうがいいわね、その人の評価のほうが的確だったりするの。自分はどこまでいっても主観。客観的にみるというのは物理的にできないから、とても難しいものね。自分をいろいろな側面から理解していく。そんな作業を簡単にできる人は、それだけで才能がある人なのね。私はいろいろ小難しいことを理屈を並べて理解しているつもりになっているけど、それは結局は自己満足の上に、主観でしかないのね。残念ながら、私にはそういった才能がなさそうなの。

 

なんだか暗い話になっちゃったわ。だめねじめじめしていて。じめじめしているのは、外だけでうんざり。最近は汗もよく書くから帰ったらにおいがすごいの。はしたないかもしれないけれど、いつも気になってくんくん嗅いでしまうわ。とっても臭いんだもの。恥ずかしい。デオドラントとかは駄目ね。においをごまかすだけで、まざってすごいことになるもの。あせっかきさんは、ちゃんと着替えを持参したほうが、風邪をひく心配がなくってとってもいいもの。外は暑いけれど、施設内は案外寒いものだから、風邪をひいてしまうわ。

 

何の話だったかしら。私はこういったことがよくおこってしまうの。いろいろな考えがまとまらないのね。どんどんどんどん考えが出てくるのはいいけれど、気分で書いてるものだからあっちにふらふらこっちにふらふら。集中力が足りてないのね。そうそうさらけだすって話だった。さらけ出すのって難しいわ。いまは女性言葉で書くってのが案外難しいって思っているけれど。馬鹿な話ね。自分をさらけ出したいと思って試みたことが案外難しくって、さらけ出すことをしたいのか、女性言葉として文章を書きたいのかよくわからなくなっているもの。企画倒れ甚だしくって馬鹿みたい。また寄り道。もう。本当いや。

 

さらけだすっていうのは、外で全裸になるようなものなの。おまわりさんに職質されて、つめたいご飯を食べるような話をしたいわけではないわ。でもそれくらい勇気のいることだと思うの。みんな自分を守っているの。外からそして自分から。結構自分自身が自分への評価をしているっていうのはわすれがちだわ。外から評価されることをおそれて、そして自分らしさとはなにかっていう自分の中の枠にも制限されているの。だから自分の枠を壊すしかない。自分の枠を壊すには何かを変えてみないといけないのね。目に見えて膝小僧でふんって折れたら簡単なのに。だからこその女性言葉なの。いうなら言葉の全裸ね。ふふふ。言葉の全裸。書いていてこれほどインパクトのある言葉ってないわ。タイトルにしましょ。

 

他人からの評価を気にするなと人は言うけれど、私たちは他人の反応でしか自分を見ることができないの。だから、他人の評価は絶対必要だわ。気にしないなんて、定規を使わずに長さをはかるようなものだわ。そんな発想マリーだってできない。それでもきっと手足を使って定規にすると思うわ。私たちは定規なしに何かを理解することができない。何かではからないと、自分を理解できないの。その定規って結局自分の中の物差しなのね。だから客観的にみるというのは結局他人の主観と自分の主観の合わせ技でしかない。つまり客観的というものは、本当の意味では存在しないのね。存在しないものを表現するって、神様の絵をかいてみろといわれるくらい難しいわ。とっても。

 

もっとおしゃべりしたいけど、いつの間にか2000字を超えてしまったわ。言葉の全裸化なかなか面白かったわ。次回はもっと面白い話をしましょうね。リクエストがあればお受けしたいわ。ふふふ。お返事が来るのはとっても楽しみ。でも来なくってもいいの。私は気分屋だから、そして忘れっぽいからすぐに別のことに気持ちが移っちゃうわきっと。ね。自分を守ってるでしょ?

 

またね!

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