シン・春夏冬広場

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【書評】ノンケから見たゲイへの優しい視点がやらないか!には込められている

僕がゲイという性質に興味を持ち始めたのは、フレディ・マーキュリーの映画「ボヘミアンラプソディ」を見たあたりからだろう。彼はゲイで、ゾロアスター教徒だった。ボヘミアンラプソディに込めた思いは、解釈が様々あるが、共通した部分があった。ゲイであることを隠さず、これまでの敬虔な自分を殺して、新たに歩みを始めたという解釈が一般的である。自分自身を歌った曲である。

 

僕はノンケであるが、そんなゲイの人たちのこれまでの生き様、これからの生き方を学びたいと考えた。多様性な時代が進む中で、こうした性的マイノリティーが活躍するような世の中になっていくことだろう。そうしたときに、偏見を持たずに付き合っていくには、背景を学んでいて損はない。

 

実は、本格的に知ろうと考えたのには、もう1クッションある。日本の代表的なシャンソン歌手といえば、三輪明宏さんだ。妻に連れられて、彼女のコンサートに行ったのだが、ヨイトマケの唄愛の讃歌を聞いて感動し、彼女の人生の背景を知り、そうした性的マイノリティーに関して学ぼうと決心したのだった。こうした意味でも歌というのはその時の時代背景や、本人に関して思いを込めたほうが伝わるものは多い。

 

僕は学び始めるきっかけというのは些細なもので構わないと思っている。知ろうとして、努力をして、それでもきっと彼らを理解するには足りないだろう。ただ、一歩踏み出したに過ぎないが、その一歩が大切な一歩なのだと考えている。

 

一番苦労したのは、いざゲイの人たちについて知ろうと考えたときに、何を学ぶのが一番良いのかという部分だ。ゲイの人が自身の半生や、心情を語るものは数あれど、実は彼らの考え方や、見方というのはゲイならではの視点であり、たやすく理解できるものではないだろうと考えていた。つまりはじめの一歩は僕のようなノンケから見たゲイへの視点が大切だということだ。そして、それは彼らに寄り添った人の言葉でないといけない。想像上の彼らを語っても、妄想の域を出ない無価値なものだからだ。

 

そんなときに、伊藤文学さんの本を知った。伊藤文学さんは薔薇族の編集長で、出版主でもある。彼はノンケだ。ノンケであるのだが、ゲイの方たち【主に男性側】へ薔薇族という雑誌を発行していた。この本や挿絵は今となっては有名なものになっているが、現在は廃刊に追いやられるほど、売れ行きは芳しくなかったようだ。しかしながら、ゲイの方を思いやりながら、鬱屈とした感情の発散場所を提供した立派な働きだ。それは彼の文章にも表れている。「ゲイたちよ堂々と生きよ!」という意味が「やらないか!」に込められている。このような言葉を向ける時代背景としては、美輪明宏さんが、たびたびヒット曲を出しても、干された状況から、ゲイの方たちは当時ある種の精神疾患という扱いを受けており、本人たちもそういった変態という思い込みがあったようだ。

 

本の中には様々な視点が書かれた短編のエッセイ集のようになっている。

・現代の若者たちに向けた激励の言葉

薔薇族の生い立ち

・性的マイノリティーの方たちとのエピソード

などが主な内容である。内容はかなり生々しいものがあるが、ゲイの文化や時代的な背景を知る上では貴重な本だ。美輪さんの話の中で出てくるシャンソンの話、三島由紀夫の話など知らなかった部分に触れる事ができる。ゲイからの視点で語られるのは、アドニスがあったとか、三島由紀夫が書いた文章だとか、そういったやはり狭いゲイのコミュニティに限定して書かれることが多い。しかしながら、伊藤さんの本にはゲイのコミュニティの話、他誌である風俗奇譚の話、アドニスの運営の話など広くゲイの文化がいかにして支え合いながら、生き残って来たのかを書かれている。

 

もともとゲイという言葉がなかったため、それまでは「そどにあ」と表現されていた。僕らが知っているホモですらないのである。広く理解するにはまず社会的な背景や、差別を受けている状況などを偏見なく知ることが大切だ。そして、なぜ伊藤さんがゲイの方たちに寄り添おうと考えたのかというと、彼の祖父伊藤富士雄さんの偉業に由来するだろう。伊藤富士雄さんは、救世軍に所属し、吉原の廃娼運動に携わっていた。この本の中にはゲイだけではなく、当時の娼婦に関する記録も収められている。色々な意味で重要な文献だ。伝え方が難しいが、社会的地位が弱い立場の人を誠心誠意支えた。

 

話は変わるが、同人誌というのはどうやらこのときから日本の文化としてあったようだ。同人誌の文化的な背景を知る上でも貴重な本と言えるだろう。今のようなコミケのように広く知られるような文化ではなかった。会員をつのり、会費の中で非合法的に出版しており、警察にも摘発されながら生き残ってきた。そうしたものが、現代の同人誌へと進化していったのだと考えられる。様々な文化の起点を知れる本だ。

 

疑問が残る部分もある。かつての日本は、もっと性に関して寛容だった印象がある。江戸時代には男色の文化がそもそもあり、衆道と呼ばれていた。浮世絵などにも男同士で交わるものが描かれていたりする。日本はかなり性に関して寛容で、奔放な印象だった。これがなぜ、現代に近づくに連れ、排他的な扱いを受けるようになったのかは謎である。カトリックの教義では、自然的でないとし、否定されている。また前述したゾロアスター教の教義でも、同性愛は禁止されており、イスラム教でも禁止されていることから、キリスト教関連の西洋文化との交わりが、日本の性への価値観を変えてしまったのではないかと考える。

 

しかし、実は自然界でも同性愛の行動は存在することがわかっているため【例えばボノボなどの猿】、人間だけが同性愛という営みを持つわけではない。自然界においては性そのものの区別が曖昧である場合もあり【例えばナポレオンフィッシュ】、そもそも自然的に見れば、同性愛は普通であり、自然的な営みの一部といえる。また同性愛が特異な現象かと言われれば、そういったことは微塵もなく、その人の個性の一部でしかないと言える。同性愛を否定する人間の考え方こそが、異常であり、生物の歴史すべてに反逆する行為だと考えられる。

 

本誌を読んで、性的マイノリティーを考えるときに忘れてはいけないいくつかの視点があるように考えている。それは女性に関しては書かれているものがほぼないのだ。伊藤さんの本の中でも語られているが、ほとんどが男性側の話であり、女性の性的マイノリティーに対する話は書かれていないし、文化が見当たらない。こうした点においては、現在の性の中で語られている男性に対して、女性の文化史が見当たらないという見方は、狭くなればなるほど、厳しくなっているというのが自覚できた。次は女性史に関して理解して行きたい。

 

女性側のレズの文化が、ほとんど存在していないと先ほど書いた。しかしながら、そのレズの文化に焦点を当てているのが、永田カビ先生だ。永田カビさんはきっとそういったことを意識して書いたわけではないのだが、はからずともレズ側の文化がほとんど表に出ない中で、そういった場所を探し出し、かつ実際に行ってみた話をエッセイ漫画として出している。こういったいろいろな背景が合わさると、この本にどれだけ価値があるのかが、ようやく見えてくる。僕のブログでも以前紹介していた。

 

www.akinaihiroba.com

 

性的マイノリティーの話を取り扱うにあたって、やはり背景を理解しつつ、偏見を持たず情報を収集するうえで、まずはノンケから見たゲイを取り上げたことは重要だった。永田カビ先生はノンケだと思われるが、レズ側の話も理解を進めることが出来るだろう。それでは今度はゲイから見たノンケの話に進んでいきたい。おそらくゲイとバイセクシャルはある程度話が出てくる可能性があるが、レズとトランスジェンダーは難しいかもしれない。より細分化された性に関してはきっともっと難しいことだろう。少しずつ取り組んでいきたい。そして女性の話にも折を見て触れていきたい。

 

 

〇参考文献

薔薇族編集長 伊藤文学さんの本

 

フレディ・マーキュリーの半生 ボヘミアンラプソディー

 

・永田カビ先生の一人交換日記

 

・永田カビ先生の寂しすぎてレズ風俗にいきましたレポ

 

まった今度をおっ楽しみに~。ばぁい。