シン・春夏冬広場

楽しいことになんでもやっていこうっておもってますぜ。

人から伝えられた知識と経験から得られた知識は性質が異なる

知識は制約だ。知れば知るほど制約にとらわれ、可能性をつぶす。知りすぎバカという言葉があるくらい、知識を得すぎるというのは自分の可能性の芽を摘むことにつながる。小説においても情報量を必要以上に多く記載しないことが求められる。Too Much Informaitonという言葉が示す通り、文章を読むうえで必要のない情報を入れるというのは、ミスリードを誘発する。多すぎる知識は、馬鹿へのいざないなのだ。ユミルの泉から万能の知識を授けられたオーディンは馬鹿だったに違いない。

 

しかし、何もない知らない状態からのスタートというのは、制約はないものの、出発点があまりにもお粗末すぎる。自分が天才でもない限り、最先端を追い抜けるような発想の創造は不可能に近い。10年も20年も同じことを研究している人間に対して、それを追い抜けるような発想を生み出すことは不可能に近いわけだ。

 

なぜこうした矛盾した状態が発生してしまうのだろうか。知識を得ることは必要だと考えられる一方で、得すぎると手痛い目に合いそうだ。必要十分な量だけ獲得する方法はないものなのだろうか。僕はそれがあると考えている。知識の入手先はどこだろうか。インターネットや人からの伝聞、本などで聞きかじった内容であり、そういった情報は正直本になっている時点で古い。すでに腐り始めた情報なのだと考えている。生の情報でないうえ、自分の手の内にある知識ではない。

 

自分の手の内にある生の知識を獲得することが重要であると書いている。ではそれを獲得するにはどうしたらいいのだろうか。それは行動を起こすことだと考えている。文章を書いていてもそうだが、行動を起こすたびに、考えを文字に起こすたびに、頭の中が整理され、新しい文章が浮かび上がる。関係ないと思われていた情報同士が結びつき、相互作用を起こしながら有機的なつながりを形成するようになる。

 

僕は経験によって得られた知識と人から伝え聞いた知識は根本的に別のものであると考えている。経験による知識は、その知識が得られる過程で、本来取り除かれるようなノイズのような情報であったり、都合によって削除せざるを得ないような些末な情報を含んでいる。ある人は不可能だといっていたことが、実は特定の条件においては達成可能であるという想像ができるような知識を有している。それが経験による知識であり、人から伝え聞いた知識はこうしたノイズの情報が失われているために、可能性をつぶしてしまうのである。

 

なので、知識を得るのはある程度インターネットや本でさらっと収集したのちに、すぐに行動に移したほうがいい。行動に移すことで足りない部分は保管され、可能性に満ちた知識の獲得ができる。そしてそれは血となり、肉となり、知恵と昇華されるといえる。

 

またね!

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