シン・春夏冬広場

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自分を型にはめて評価されるのが嫌

何かとつけて、あなたは○○な性格だからと僕の性格を全く理解していないのに、僕の性格や人物像を決めつけて評価してくる人がいる。こういった人に一度レッテルという名の評価【レッテルという言葉を久々に書いた。そういえば最近は使われなくなってきた。】を下されると、そこから抜け出すことができない。

 

こういった型にはめて評価されると、正直可能性を排除されているみたいで非常に腹立たしい。僕という人間の可能性や、新たに取り組んでいる頑張りを否定されているかのように感じてしまう。成長は肯定やほめる中でしかはぐくまれないというのが持論だ。これは山本五十六の「言って聞かせて、やって見せ、ほめてやらねば人は育たじ。」という言葉からも、間違っていないと考えている。

 

あるいはこうしたカテゴリー分けのような評価は必要なのかもしれない。自分の持ち物を分類するかのように、人を分類しているわけだ。問題は一度しまわれた棚が更新されることがなく、そのまましまわれてしまう。しまっちゃうよおじさんとかしまっちゃうよおばさんが世の中にあふれている。

 

洋服は一度作られたのであれば、ビンテージになる可能性のある頑丈な洋服以外はほとんど変わることがない。変わったとしても虫食いでダメになったり、やぶれて着られなくなったりする。数年で入れ替わることを考えると分類したとしても新たに購入されれば、更新されるわけだ。

 

だが人は違う。分類されたとしても、その人が新しくなることはない。新しくならないのだから、新しく知り合う以外に更新されることはない。しかし問題なのは、人は常に変わるものだ。身体的な特徴が変わったり、おかれている環境が変わったり、子供が生まれて意識が変わったりといろいろな出来事で人は変わり、成長する。あるいはその逆で堕落する生き物でもある。

 

そのため人を分類するのは、必要な行為かもしれないが、常にその人となりを更新していく必要がある。話していればわかるもので、受け答えが丁寧になったり、よく考えられた物言いを行ったり、そうしたその人の成長が分かる部分が発見され次第、その人の評価を改める必要がある。その逆もまたしかり。

 

人を分類してその評価が更新されない最たる例は両親だ。いつまでも両親にとっては僕は子供であり、ダメだった子供だ。世話のかかる子供だったし、聞き分けのない子供だった。そんな手のかかる子供だったので、両親にとってはよき思い出であり、鮮烈な記憶となって、カテゴリー分けされている。

 

しかし、正直言って40近いおっさんになってまでいつまでも昔のことを引きずりながら、わけのわからない戯言を抜かされると正直腹が立つし、うんざりしてくる。子供というのは巣立つものなのだと常に実感する。そういった考え方の齟齬が非常に大きくなってくると、子供は巣立たなければいけない。いつまでも親のすねをかじるわけにもいかないのである。

 

判を押したように人を評価してくるのは両親だけではない。先生といわれる人々も同じように評価を下さして分類してくる。おそらく先生の重要な能力にその人の性格や得意なもの、苦手なものを瞬時に分類し、何を教えていかねばいけないのかということを考えていかねばならない。その必要があるからカテゴリー分けされてしまうし、多くの生徒がいるものだから、カテゴリー分けされてからも戸棚から出されることがない。そういうものなのだろう。

 

ただ、もうすでに過去の話だ。いい加減に20年とか30年前の状態から分類を改めてほしいと思う。ただ、恩師などにはなかなか会う機会がないものだから、分類を改めようにも情報が少ないのかもしれないな。

 

 

 

 

またね!

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