シン・春夏冬広場

楽しいことになんでもやっていこうっておもってますぜ。

他の人の雑談はドラマであり知識である

雑談には魅力がある。自分の知らなかったこと、自分が考えもしなかったこと、あらゆる視点からの言葉があふれている。自分の人生の中では得ることが出来なかった回答や、自分のルーチンの中では生み出されなかった視点がある。それは自分の時間を節約していることにもなる。自分では生み出すことも、考え出すこともできない立ち位置からの言葉。それは想像を絶するものである。

 

ツイッターのスペースや他の人の雑談を仕事をしているふりをして、そば耳を立てる。頭が疲れたときや、なんだか退屈だと考えているときに、そういったことをして暇をつぶしている。レストランなんかで女子高生がするきらきらした雑談。奥さんたちがするどろどろした雑談。恋人たちがする甘々な雑談。男性同士でするなぜかイチャイチャした雑談。あらゆる雑談は、僕に新しい視点をくれる。

 

僕は他人に対してそこまで興味がないと思っていたのだが、自分でおもっている以上に人が何を考えているのかということに興味がある。自分で考えていることにはフィルターがかかっている。自分の考えは自分をかっこよく見せたいだとかそういったバイアスがかかっているのだろう。誰にかっこうを付けるのか全くの不明であるにも関わらず、僕は自分をかっこよく見せることになぜか力を割いている。他人に興味がないというのは孤高の自分がかっこいいとでも思っているのだろうか。僕は思った以上に自分を理解できていない。そして、同時により他人のことはわからない。わからない未知のものは非常に興味をそそられる。僕が他人に対してどんな感情を抱いているのかわからない。それと同時に他人が僕に対してどんな感情を抱いているのかもっとわからない。だから僕はきっと他人に自分を良く見せたいと思うんだろう。

 

僕はさみしがりだ。さみしがりなので、孤高でありたいなど、考えてもいない。にも拘わらず、なぜか自分が孤高でありたいかのように格好をつける。意味が分からない。さみしがりの癖に、人から極端に干渉されることを嫌う。プライベートの生活の中に入り込んでほしいと思わない。1人でゆったり過ごすことが、ストレス解消に一役買っている。奥さんや子供がいても、きっと孤独に過ごす1人の時間は大切だ。時たま奥さん、子供が実家に帰ることがあるが、部屋が閑散として、さみしさが非常にあふれているのにもかかわらず、僕は同時に解放感を感じている。それはきっと奥さんも同じなのだろう。できる限り、僕がずっと一緒に居続ける状態というのはなくした方がいい。

 

そういった考えに至れるのは、他人の雑談に耳を傾けて、やれ熟年離婚しただの、浮気しただの、ずっともだよだの聞いているから、そのように考えるんだろう。他人の考えは僕に新しい視点をくれる。楽しい。楽しいから僕はほかの人が何を話しているのか、そっとわからないように耳を傾けている。気持ち悪いと言ってはいけない。それはお互い様だろう。たまたま耳に入った、興味が出て聞いてしまったというのは誰しも経験があることではないだろうか。

 

ほかの人の話には、ほかの人なりのドラマがあり、人生がある。それは僕では決して得ることが出来ないドラマであるから、きっと非常に興味をそそられるし、楽しいに違いない。雑談を積極的にする必要はない。そっと耳を傾けるだけでも、楽しいものさ。積極的に生きる必要はない。みんないろんな感情をもっていて、自分のように同じペースでいろんなことを考えたり、生活しているわけではない。ほかの人にはほかの人なりのペースがあるんだ。わざわざ割ってはいって引っ掻き回す必要はない。わざわざ否定する必要はない。それはそういう物語なのだとして、聞き流せばいい。聞き流して得られることがあれば、自分の人生の中で消化すればいい。雑談に耳を傾けよう。きっと明日は何か違う物語に出会えるに違いない。

 

 

まった今度をおっ楽しみに~。ばぁい。