シン・春夏冬広場

楽しいことになんでもやっていこうっておもってますぜ。

やっぱり僕らは誰かとかかわらないと生きてはいけない

コロナのおかげで、リモートワークの環境は軒並み進化した。リモートワークの恩恵としては、海外や離れている場所との距離の概念を打ち消し、オフィスに集合するという従来の働き方を根底から覆した。初めてリモートワークが実施されたときには、仕事をしているのに、自分の部屋でやるという環境の変化に対して、サボりすぎてしまったり、1人がさみしく辛かったりしたものだが、最近はそういったこともなくなり、従来のオフィスのように仕事に取り組めることが多くなってきた。リモートワークは圧倒的に楽だ。通勤の必要性がないから、余分な時間をロスしたり、ストレスを抱えることがなくなった。オフィスにいるとすぐに厄介ごとに巻き込まれる。いつの間にか背後に立たれ、ねぇねぇって話しかけられる。このねぇねぇは厄介だ。いつだって、余計な雑務を押し付けられる前触れである。そう言った面倒ごとからリモートワークは、解放してくれた。

 

しかしながら、リモートワークはやはりほどほどにすべきだ。確かに孤独に進められる作業はリモートワークでよいだろう。リモートワークは、創造性と調整機能を奪うと感じている。会議室から廊下を奪い去ったためだ。調整や相談は、会議室で行われない。会議室で話された議題や問題に対して、廊下で調整業務を行うのである。また困ったら対象の人の席に訪れ、待ち構えることが出来た。まぁそれが厄介ごとなのであるのだが、確実に話ができ、誤解が生じないように話を進めることが出来た。

 

僕はメール、電話、ビデオ通話、会話の順で情報の伝達に誤解が生じると考えている。とりわけメールは最悪で、情報の送信には十分だが、言葉を間違えると誤解が生じる。ひとたび誤解が生じると、訂正するのは困難を極める。無機質な情報の伝達手段であるから、冷たい印象を与えやすい。しかしながら、フランクにアスキーアートを使うことが出来る対象は限られている。偉い人に対してごめんなさい(; ・`д・´)なんてメールを送ることはできない。やわらかい印象を与えることが出来るが、悪い印象まで与えかねない。テキストは情報を伝達しすぎるので、誤解を生じないように細心の注意を払う必要が出てくる。やはり確実な情報の伝達は会話を行いながら、テキストで情報を残す手段がもっとも確からしい。ビデオ通話では会話に混ざるタイミングが難しく、こちらも慣れが必要になってくる。相手の動き、表情が即座に把握できないのだ。コミュニケーションというのはそうした高度な情報のやり取りであることが、リモートワークを通じて改めて理解できた。これがリモートワークの調整機能の弊害である。

 

リモートワークは、雑談の機会を奪ってきた。雑談というのは、出会いから始まる。たまたま廊下ですれ違った知り合いに久しぶりと話しかけ、他愛もない会話をする。そうすると時たま新しい発見があったり、知識が増えたりすることがある。関係する人物の席を訪れたり、時間をかけて話をすすめることで新たな発見や方法を生み出すことが出来たが、それにはやはりリモートワークでは能力が足りていないように思う。他愛のない会話のなかからきっかけを生み出し、新しい話につなげていく。そうした出会い、雑談、そして創造性への一連の流れが廊下と場所を奪ったリモートワーク上では生み出しにくい。自由度の低い仕事をするにはうってつけだが、自由度が高い仕事を進めるうえではコミュニケーションが重要であり、気兼ねなく会話ができる環境がやはり必要なのではないかと感じている。

 

僕は今日久しぶりに友人と会った。仕事上の友人だ。男性である。かなり中のいい個人でもある。たまたま食事をすることになった。久しぶりに一緒に外食をしたのだが、コロナ以前なら1時間程度で終わって解散するところだが、食事後にコメダで珈琲を飲みながら議論を行い、一緒に新しいことを考えていくことになった。結局4時間近く話をした。まったく苦にならなかったうえに、あっという間に過ぎ去ってしまった。やはり僕らはリモートで完全な生活を送ることはできない。当然リモートワークは肉体的、精神的なメリットは計り知れないものがあるが、誰かと一緒になって会話をしながら進めることが、どうしたって必要なのであると痛感した。僕らは誰かと対話していかないと、生きていくことが困難だと思う。

 

まった今度をおっ楽しみに~。ばぁい。