シン・春夏冬広場

楽しいことになんでもやっていこうっておもってますぜ。

小さな世界と大きな世界

僕らが存在している世界は3つある。何言ってんだ、世界は1つしかないだろうと言われるのは理解できる。しかし、僕らが存在している世界は厳密には3つあると考えている。その3つが集まって重なり合い、1つの世界としてとらえているに過ぎない。1つ目の世界は個人の世界だ。これは鎌池和馬先生の言葉を借りると、パーソナルリアリティー那須きのこ先生の言葉を借りるとファンタズマゴリアだろう。僕らは個人という脳空間の中で、世界を自分なりにとらえて、世界を個人個人の尺度で認識している。世界の捉え方は相対的であり、絶対的な世界はありはしない。互いの世界を比較することでしか、現実の世界を認識できないのである。

 

個人的な世界を取り巻く環境によって、僕らは大きな影響を受けている。その取り巻く環境の中に小さな世界と大きな世界が存在しているのではないかという個人的な見解である。僕は社会というものに違和感を覚えていた。世界は優しい。しかしながら、同時に残酷でもある。この違いというのは、何によって生じているのかということだ。

 

小さな世界とは

小さな世界とは、僕らを取り巻く環境そのものである。Aさんがいて、Bさんがいて、両親がいて、友達がいて、家族がいる。知り合いのネットワークから形成された世界。それが小さな世界だ。6人に話を聞いていけば、すべての人につながる『6次の隔たり』という言葉がある。この言葉に代表されるように、自分を取り巻く環境は、小さいのだが、6人をたどっていくと世界を形成できることから、僕らを取り巻く環境は世界に通じている。つまり小さなネットワークを形成することで、世界になっているのである。

 

小さな世界は僕らに優しい。知り合いや顔見知りから形成されているこの世界は、自分を無視したりしない。困っている人を見つけては、悩みを聞く。助けてほしいと言われれば、助けに行く。そんな優しいネットワークから形成される世界。小さな世界は、優しさで形成され、他人を無視しない世界である。

 

大きな世界とは

大きな世界とは、社会そのものである。数値で人を表す画面越しの無機質な世界だ。僕らは小さな世界を形成している一方で、自分の自覚できない他人を認識できない。統計的な数値としてとらえ、他人の不幸を人ごとのようにとらえる。6人をたどれば、他人ではないはずなのに、僕らはその事実を認識できない。道行く人々は、他人ではないはずなのに、道を尋ねるのをためらう。誰かが困っていても、声をかけたりしない。不審者扱いされるのを避け、手を差し伸べようとはしない。身内の不幸は数値じゃ割り切れないというが、一方で他人の不幸は数値としてとらえる。

 

そんな冷たい世界が、大きな世界である。大きな世界では他人は関心の対象外であり、利益をむさぼるための機能である。自分が不当な利益を得たとしたら、小さな世界ではきっと誰かが悲しむことを容易に想像できるが、大きな世界ではそれを自覚できない。自分さえよければよいとなり、自分以外の他人に対する影響を考慮できない。それが大きな世界だと考えている。

 

最後に

小さな世界と大きな世界は、個人的な見解であるものの、おそらくそこまで大きな間違いはしていないように思う。世界を説明するには、この2つの概念(正確には3つだが今回の趣旨に1つ目は関係ない)の存在が不可欠だろう。僕らの世界は残酷で、優しい。この世界の2面性はこのように、小さな世界と大きな世界によって形成されているためだと説明できる。

 

この2つの世界の隔たりを解消する方法はないものだろうか。それがきっとフリーハグに代表されるように、私とあなたは他人じゃないという活動なのだと理解できる。やはり同じようなことを彼らは問題としてとらえ、この問題を解決しようとがんばっているのだなと初めて理解できた。彼らが同じ考えに基づいているかは不明ではあるが、そこまで的外れな考えではないだろう。

 

小さな世界を知る方法は例えば会社内の不正がなぜ見過ごされているのか、ということを考えれば理解できる。小さな世界は、空気を読む。周りに合わせることを優先させ、社会的な不利益を認識できなくなる。小さな世界は、支配者によって統治されている。

 

小さな世界と大きな世界の概念を導入することで、様々なことが説明できるようになる、そう考えているのである。

 

まった今度をおっ楽しみに~。ばぁい。