シン・春夏冬広場

楽しいことになんでもやっていこうっておもってますぜ。

本の中の共通表現を見つけると嬉しいよね

複数の本の中で、同じようなニュアンスの表現を見つけるとなんだかいっぱしの読書家になれた気がしてうれしい。大元の本がある可能性は高い。ただ、言葉やニュアンスが微妙に異なるので、単純なオマージュとはいいがたい。作成された国、時代がことなっても共通のテーマが存在することがある。隠された財宝を見つけ出せたような、そんな誇らしさがあったりするから不思議だ。

 

「ちっぽけな人間」と「女性の物語」

「ちっぽけな人間」という表現は、ロシア文学に共通するキャラクターを指している。戦争は女の顔をしていないの中では、「女性の物語」と言葉を変えて表現されている。「ちっぽけな人間」とは社会の中で誰の注意も引かず、誰にも認められず、不当に虐げられ、社会の片隅でひっそりと生きている人を指す。

 

戦争は女の顔をしていないの中で、それは女性兵士であった。彼女らはスターリンによって、一丸となって祖国を守ることを扇動された。彼女らが選択したように見えるが、ドイツ軍に攻め込まれ後がないソ連の苦肉の策に見えた。戦争中彼女たちは不当に傷つけられる。戦争に行った女とは結婚したくないや不貞になるくらいなら殺してくださいという言葉を投げかけられる。戦争が締結してもその状況は変わらない。怪我をした男たちは表彰される一方で、女たちは集合住宅に押し込められ、誰にも知られることはなかった。貧しい生活をしていた。それはまさに「ちっぽけな人間」だった。

 

「小さい物語」と「大きい物語」

心はどこへ消えた?の中で表現されている言葉だ。ロシア文学と若干ニュアンスがことなるため、自分で考えたオリジナルの言葉なのだと考えている。本の中身を引用しよう。

 

小さな物語はあまりに、はかない。私たちにはそれぞれに複雑な事情があって、個別に対応してもらわないとどうしようもないことがたくさんあるはずなのに、それらはすべて無視されてしまう。大きすぎる物語は数値化しにくいものまで数値化してしまうから、複雑なものは全部シンプルに処理されてしまうのだ。

心はどこへ消えた?より引用

 

「ちっぽけな人間」のニュアンスに非常によく似ている。大きすぎる物語は社会全体をさしているため、社会>個人という関係性で実際の大小を表している。僕らの物語はいつだって複雑で、難しく、単純に割り切れるような問題はない。それぞれが都合を抱え、折り合いをつけて生活している。社会全体から見たら、そうした1人1人の複雑な生活は、人口静態として処理されてしまう。労働力、性別、税金として表現されてしまう。しかし、僕らの本質は数値に現れない。大切なものは目に見えないところで営まれている。

 

「歯車」

僕は会社員という生き方に絶望してはいない。の中で表現されている。一見すると共通性がないと思われるだろう。本書の内容を引用したい。

 

「社会の歯車」とは「ちっぽけな存在」「交換可能な部品」という要素を揶揄していることばだと想像するけれど、僕は最近「歯車そんなに悪くなくね?」と考えを改めているのだ。

僕は会社員という生き方に絶望してはいない。より引用

 

こちらの表現も社会>個人であることがわかる。本書の面白いところは偉大な業績を上げた人すら交換可能な歯車に過ぎないと表現しているところ。たしかになぁと妙に納得してしまうから、不思議だ。僕らは社会を構成する歯車の1つに過ぎない。このシステムは非常に複雑で大きく、歯車が壊れたとしても動作することが可能だ。これをシステムの冗長性という。社会は冗長性で満ちている。誰一人として特別なものはないというと、なんだか少し寂しいが、事実だろう。

 

いかがだっただろうか。それぞれニュアンスが微妙に異なっているが、時代、背景、性別、国すら飛び越えた共通認識のテーマが見つかるというのはそれだけで何か1つの財宝を発見したかのような、妙な喜びがある。このテーマは人類共通のテーマであり、常に考えなくてはならないものだということを示唆している。

 

 

 

 

まった今度をおっ楽しみに~。ばぁい。