シン・春夏冬広場

楽しいことになんでもやっていこうっておもってますぜ。

日常生活を送ることに集中する

こんにちは。月ノ下扉です。

 

ハッピーライフ送ってますか?日常生活ってなかなかありがたみがわからないもんですね。僕は日常生活を送れているようで、なかなかうまくいってなかったんじゃないか、集中できてなかったんじゃないかと、ここ数年を振り返ります。なんでそんなことを感じたのかというと、ここ数年の僕はほぼ1人で生活してました。コロナ禍ということと、妻の出産のための帰省などもあり、会社にもいかず、ほとんど誰とも会話せずに過ごしてました。1人といっても独身時代とは違うわけです。完全に孤独でした。これまで僕を癒やしてくれたものは、マンガだったり、アニメだったりしていたんですが、そういったものが無性につまらなくなった。何故かというと、そういった趣味と呼ばれるものは孤独に楽しむものではないらしいのです。1人でも楽しく過ごしているつもりでしたし、誰かにとやかく言われない生活とは良いものだと、勘違いしていたようでした。孤独なようでいて、誰かが側にいたのでした。

 

最近はコロナウィルスがいる生活に世の中が慣れて行って、孤独が解消され始めた。そんな中で、孤独な生活から日常生活へと徐々にシフトし始めています。僕はというと、人との話し方や、妻、子供との接し方がどうもわからなくなっていたようです。コロナ禍でブログを始めましたし、他にも絵を描いたり、物を作ったりして、とにかく色々やっていました。孤独を忘れるように埋めるようにむさぼっていました。しかし、そんな自分中心の生活はおよそ日常生活とはかけ離れていたようでした。日常生活とは何かを定義するのは範囲が広すぎて難しいですが、人との関わりの中で折り合いをつけながら送っていくようでした。まずそこでつまずいてしまった。自分中心に物事を考え、やりたいことから優先してやると、どうにもチグハグになってしまう。家族と折り合いが悪くなり、仕事もうまく回せなくなりました。やりたいことをやっているはずなのに、逆にストレスを感じるようになって来ました。僕はいったい何をやりたいのか、誰のために頑張っているのかわからなくなったのです。

 

僕は自分を取り戻さなければならなかった。日常生活を送っていた僕を探す日々。まず子供の世話を集中しました。いまの生活は生まれてきたばかりの彼が中心の生活のはずです。彼のための行動は巡り巡って妻のための行動であり、自分のための行動でもありました。これはなんとかうまく行き始めた。朝早く起きれるようになり、夜更かしをしなくなりました。とても快適だし、罪悪感もありません。なぜなら役に立っているという自覚があるからでした。自分の存在が誰かの役に立っていると感じることが出来たのです。自分の欲求のみに従った行動は、必ずしも満足感が得られるものではないようです。そういったことに気付きました。

 

そしてその行動は仕事でも同じでした。自分のことだけを考えて行動しても、誰からも必要とされないし、相談されないようでした。誰かに必要とされるには人の役にたつことを自分から与えることが必要でした。助けてもらいたいなら、自分から差し出す必要があるということでした。これまでは会話の流れの中で普通にできていたことが、日常生活を奪われたことによって出来なくなった、あるいは忘れてしまったようでした。

 

日常生活というものが何であったのか、取り戻し始めてから気付くことが多いです。ただ失っただけでは気付かなかったでしょう。取り戻し始めてから気付き始めることが多いです。日常生活というのはリズムだと考えています。リズムがうまくいっていると、気分も上がってくるし、穏やかな気持ちになってきます。しかしながらこうした日常生活が戦争や、災害によって簡単に失われるものであると、ようやく自覚できました。僕らの日常生活を守るための要素は意外と複雑です。人間関係、社会環境、世界情勢、自然環境そういったなかなか自覚し辛いものが大半を占めています。そのため、生き物や気温の上昇を抑えるにはといったことや、いさかいを起こさないようにするにはと言ったことをもっとよく考えるべきなのかもしれません。そういったなかなか自覚し辛い、漠然とした概念のようなものだったり、ゆっくり変化するため気付きにくいものが僕らの日常を構成しています。そういったことに気付きました。