シン・春夏冬広場

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ミュシャの模写:ダンスは元祖シャフト角

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ミュシャの模写。2作品目は、「ダンス」という作品。この作品は1898年に制作されたリトグラフ作品。四芸術のシリーズ作品の1つである。

 

四芸術とは音楽、絵画、詩をそれぞれ抽象的概念を人の姿であらわしたもので、擬人像という技法が用いられている。現代の漫画に使われている擬人化は、すでにミュシャの時代で取り入れられていた技法である。ほかにはボッティチェリによる擬人化などがある。擬人化はてっきり漫画で確立された技法とばかり考えていたが、その走りである作品は、すでに120年前に世の中に誕生していたのである。芸術家の飽くなき精神は、非常に勉強になる。

 

この作品はミュシャの作品には珍しく、かなり動きのある作品。それまでは映画のワンシーンを切り取ったような作品が多いが、本作品は人の動きをそのまま切り取ったような写真のような作品である。花弁や髪のたなびく様でまさに今ターンをしてこちらを見ている動きが連想される。

 

 

シャフト角

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化物語第2話より引用

この作品をみて、気づかれた方は多いかもしれない。この作品の最大の見どころはシャフト角である。僕らが化物語で知る120年ほど前に、すでにミュシャによって芸術の域にまで昇華されていた。

 

シャフト角はシャフトというアニメ制作会社が利用する印象的なシーン。2009年に放送された化物語において、戦場ヶ原ひたぎがこちらを振り向く際に行ったことで、注目を集めるようになった。現実の人間にはできない表現だと話題だった。

 

しかしながら、この実に120年ほど前にすでにミュシャによってこのシャフト角の芸術的な角度は実証されていたのである。きっと世の男性たちは考えたに違いない。このえげつないくらいの背中の反り具合と、あごを上方に向け、髪をたなびかせる様のいろっぽさ。服を着ているのにも関わらず醸し出される妖艶さとエロティズムに夢中になったに違いない。なんて妖艶なんだと。ふっと画面から目が離せなくなる。このシーンをもう一度見たいと繰り返し見たりもしてしまったわけだ。

 

もちろんシャフトとミュシャの関連性は不明だから、化物語のシーンをミュシャのダンスによって制作したとは考えにくい。インスピレーションを受けた可能性があるが、だからと言ってどちらの作品が良いか悪いかという議論に意味はない。芸術的にもアニメ的にもあの表現方法はありだということが分かったに過ぎない。

 

現代のわれわれですら、刺激的に思うのだから、120年前の清貧を重んじる時代においては、かなり刺激的で、挑戦的な作品であったことは言うまでもない。こうして昔の芸術を眺めていると、そのいたるところで、現代アニメに通じていたり、現代芸術に続いていたりするから面白い。

 

後ろ姿に見る芸術性とエロス

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百人一首小野小町より引用

後ろ姿を見せることに芸術性やエロスを感じることは、何もおかしいことではない。女性のたくし上げられた髪のうなじを見て、ドキリとする。それは何も間違っていない。それは日本芸術が証明している。百人一首小野小町は、絶世の美女として知られているが、その顔を拝むことはできない。彼女の後姿だけである。現代の百人一首は顔出しOKなのか不明だが、僕が知っている百人一首では、小野小町の顔をついぞ拝んだことはなかった。

 

このように、背後を拝んで、女性のエロスを表現する技法は、古くは江戸時代から盛んになっていた。うなじの襟首の垂れた短い毛を日本では後れ毛、後れ髪、愛嬌毛といって敬った。現代のアホ毛に通じる概念が実に150年前に発案されていた。

 

後ろ姿や首元に芸術性を感じたり、妖艶さやエロスを感じたりすることは、すでに150年以上前から分かっていたのである。ミュシャ、日本芸術、シャフト角がすべてつながった瞬間であった。顔が見えないことに妄想を掻き立てられた江戸時代、そこから振り向きざまの美しさを考えたミュシャ、そして現代的な表現に昇華したシャフト。各芸術家たちが切磋琢磨をし、同じような結論に至る様は観ていて感心する。

 

アニメ、漫画はやはり芸術的な要素を多分に含んでいるわけだから、いろんな芸術に触れて、絵をかくことに意義があると考えている。

 

まった今度をおっ楽しみに~。ばぁい。