シン・春夏冬広場

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リモートワークは疑似的にイジメの環境が出来てしまっている

人というのは矛盾にまみれている。一貫性のある発言や生き方というのは、貫けないものだなと常々思う。最強だと思った矛は常になまくらに成り下がり、人生の壁に弾かれる日々を過ごしている。僕は孤独が苦手らしい。そんなことはとうに気づいてはいたが、リモートワークを行ったことで、より鮮明に浮き上がってきた。それまでは、1人で部屋に引きこもって作業できるなんて、なんて優雅に過ごせることだろうかと、人は距離を克服したのかとさえ感じた。仮想上の出勤をし、誰かと話すこともなく仕事をはじめ、誰からも評価されることなく1日を終える。好きな音楽を聴き、好きなものを食べ、周りを気にすることなく作業に没頭できる。そんなありもしない幻想を抱いていた。

 

孤独というのは、どうやらいくつか種類があるようだった。

 

ニュースなどで良く出てくるのは、孤独死の話だろう。肉親がそばにいなくなり、伴侶がいなくなり、物理的に孤立していく。周りが異変に気付くことなく生涯を閉じてしまう。仮に物理的な孤独としよう。

 

似たような話だが、ニートの問題がある。この場合、周りに両親や肉親は健在である場合が多いが、本人が社会との繋がりをたってしまっている状態だ。これを社会的な孤独としよう。

 

では子育てしている母親が、ワンオペになってしまって育児ノイローゼのような状態はどうだろうか。あまり色々名前をつけるべきでは無いかもしれないが、家庭上の孤独だろうか。

 

どれも適切な人とのコミュニケーションが不足することで、発生していると考えている。物理的な孤独は、家族以外のコミュニティに参加すべきだし、社会的な孤独は同じような境遇の人と会話すべきだ。家族上の孤独は自分の両親や、友人と会話し、それから夫婦で会話することで前進するのではないかと考えている。単純にひとつのもので解決するものではないから、色々模索が必要だと想像する。

 

リモートワークはこれまで出てきた孤独と同じだろうか。実はそんなことはないと考えている。僕らは、群れの中で過ごす社会性の動物である。どうやらリモートワークというのはこの群れの繋がりをたってしまう、群れの繋がりが強固であればあるほど、孤独を感じやすいものであることがわかった。日本人にとっては最悪の環境といえる。それはなぜか。僕らは空気を読んで生活している。そしてどうでも良いことを話しながらガス抜きをしたり、自分の思い込みを払拭したりしている。ある意味、組織の意識のコピーを取りながら、個人と組織の考えをDNAのように転写しているのではないかと、そう考える。

 

難しいように聞こえるが、たいしたことはしていない。ちょっとした会話で周りの考えと、組織の考えの意識を統一する作業をしているのだ。それに尋常じゃないほどのコストを支払わなければいけないのが、リモートワークだった。ちょっとしたことでも、いま電話出来るかなとか、忙しく無いかなとか余計なことを考えるようになった。これまでは席に行けば暇そうにしているのを理解し、話かけることが出来たのだが、それが不可能になった。

 

僕はリモートワークが主流になったときに、体調を著しく崩した。周りは孤独にしているつもりが無くても、本人はめちゃくちゃ孤立している。仕事や課題が少しでも進んでいるから、周りはそんな異変に気付かない。顔が見えないから、元気が無いことにも気付かない。組織の中での孤独が発生していた。

 

この状況に1番近いものはなんだろうか。イジメである。誤解がないように断るが、イジメられていたわけではない。イジメに近い環境が出来てしまっているという注意喚起だ。そのくらいの孤独感ということだ。リモートワークをすることで、ありとあらゆる物理的な距離が一定になった。これは海外とのコミュニケーションにおいては画期的だ。しかし、本来近いはずの精神的な距離は逆に開いてしまった。精神的な距離を詰めるのにこれまで以上のコストを強いるようになってしまった。その結果として、疑似的なイジメのような環境が出来上がってしまったのである。そりゃ精神的にくるわな。

 

解決方法は単純だ。出勤することだ。挨拶をし、食事を一緒にとり、コミュニケーションをすることだ。相互に相手を思いやり、連絡を取り合い、無事を確認するだけだ。大切なのは、定期連絡のように無機質なやりとりをするのではなく、相手に興味を持ち、好意を持って接することだ。これまで漫然と当たり前のように教授していたものが、当たり前では無かった理にかなったものだったに過ぎないのである。コロナ下で、出勤することに嫌悪感を示す人が大半だろうが、僕は出勤しないと、潰れてしまう。