シン・春夏冬広場

楽しいことになんでもやっていこうっておもってますぜ。

夜は怖いけど楽しい

1日の終わりがやってくる。夜のとばりが下りる。今日という日付が夜をもって、睡眠を持って終わりを告げる。夜というのは特別だ。夜は恐ろしい。夜は暗い。夜は終わりだ。そして夜から明日が始まる。時計の秒針を持って、時が刻まれているわけではない。僕らの肉体に1日が刻まれている。その僕らの体の時計が、一日の終わりを告げて、同時に一日の始まりを告げる。夜は終わりであり、始まりである。僕は長年そんな夜が怖かった。

 

なぜそんなにも怖いのかと問われれば、先ほど述べた通り、夜は終わりであり、始まりだ。そんな不気味な時間は夜だけにしか存在しない。1日はいつの間にか過ぎ去り、いつの間にか忍び寄る。くらいとばりの中をのしのしと忍び寄っては過ぎていく。ちょうど中間のような終わりと始まりの中間地点が存在する。僕はその時間がとっても怖い。まるで自分が半分になったかのような、昨日の僕と今日の僕が同居する。周りはまだ暗い。まだ暗い中薄ら明かりの中で今日の僕は死に、明日の僕が羽化している。生と死を連想させるような暗闇の中で不気味に生まれるいびつな自分。そんな情景は目の前には広がっていないが、僕の小さな宇宙の中では確実に広がりを見せている。

 

夜は暗い。そんな不気味な狭間をまざまざと見せつけるかのように暗い。墨を落として広がりを見せるかのように、漂うように僕の周りをぐるりと取り囲む。色のある世界からまったく無色な世界へと書き換えられていく。そんな情景を見つめながら、今日一日の死と生を感じるそんな瞬間がたまらなく怖い。

 

人はいつしかそんな恐怖を乗り越えた。乗り越えていないのかもしれないが、致命的な状況にならないように、夜を人口の太陽で照らし出した。見えないところをなくし、明るい世界を広げた。光に照らされて、より鮮明に、いやより深淵に闇が濃くなっているのにも関わらず、僕らは夜を照らすことをやめられない。それだけ僕らの中では夜の恐怖は忘れがたい苦痛なのだろう。

 

夜の恐怖を覆すには、誰かと過ごすのが一番いい。そのために僕らは遊びに繰り出し、走光する蛾のように、明るい場所に集まってくる。恐怖を酒でごまかし、遊んで、食べて歌って忘れる。夜は自由だ。自由にいろんなことが出来る。1日の自分を振り返ってもいいし、明日の自分を想像するのもいい。死と生のはざまでまさに明日生まれかわる自分に願いを託す。そんなことをしながら、夜を楽しく過ごすのが、最近の僕の流行りだ。ごにょごにょ難しいことを言ったけど、夜遊び楽しいねって話。

まった今度をおっ楽しみに~。ばぁい。