シン・春夏冬広場

楽しいことになんでもやっていこうっておもってますぜ。

にぎりめし

にぎりめしは、遠い記憶をよみがえらせる。僕にとってにぎりめしは、過去の自分と今をつなぐ記憶の伝達装置として機能している。

 

にぎりめしを作る時は、少し米を硬めに炊く。ジャーを開けたとたんに香る米の香り。甘いような香ばしいような香り。ふと東南アジアに行ったとき空港から降り立つとこんな香りがしていたなと思い出し、ひどくなつかしさを覚える。米の艶が美しい。しゃもじで米を切りながら、下から上へと空気を含ませていく。そのたびにもわりとした米の香りと熱気が顔に当たる。米への愛着がわいてくる。

 

手のひらに水を付けて、塩をひとつまみ握り込む。しゃもじで米をいくばくかすくい、手のひらに持つ。熱い。米の息吹きを手のひらに感じながら、農家の情熱を手のひらに収めていく。梅干しをひとつまみ。僕は酸っぱいのが苦手なので、もっぱらはちみつ漬けの梅干しが好きだ。米を左右から梅干しを包み込むように折りたたんでいく。ラグビーボール状に握り込み、回転させて形を整える。手のひらのくぼみをうまく使いながら、形を整えていくと、三角形になっていく。形を整えて、できたおにぎりを皿の上に並べていく。

 

にぎりめしができたら、今度は海苔だ。弱火でコンロの火をつける。青いガスの火がゆらりゆらりと揺らめいている。海苔を左右からコンロに擦り付けるようにあぶっていく。香ばしい香りと磯の風味が部屋全体に広がっていく。うちわを仰ぐようにひっくり返しながら何回か往復させるたびに、パリッとした張りのある硬さに仕上がっていく。

 

海苔に白い握り飯を抱かせる。パリッとした海苔の詰襟のようないでたち。漬物を添えてもいい。一説によると駅弁の発祥は宇都宮で、その時には握り飯とたくわんを添えたのだとか。たくわんの黄色もよいが、べったらの甘い味も好きだ。どちらも用意しよう。

 

にぎりめしを口に運ぶ。パリッとした海苔の歯ごたえと米の風味が口いっぱいに広がる。はちみつ漬けの梅干しの優しい酸味が食欲を誘う。遠くから塩味が押し寄せる。たくわんを1枚手に持ち、ぱりりと音をさせながら、かみしめる。甘く、大根の豊かな香りが鼻を突き抜ける。甘い、酸っぱいのループが出来上がる。

 

にぎりめしをかみしめるたびに、僕はかつての冷たかったにぎりめしをふと思い出すことがある。僕が高校の頃は神奈川に住みながら、東京の高校へと通っていた。部活をしていたものだから、授業が終わり、4時ごろから練習し始め、終わるころには八時を回り、空腹である。そこから2時間かけて戻るのだが、食べ盛りの高校生にはつらい仕打ちだった。

 

買い食いをするのにも、小遣いの範囲では限界がある。部活をし、電車の中で勉強をしながら帰る僕には、バイトをするような時間的な余裕はなかった。そんな時に、決まって持たせてもらっていたのがにぎりめしだった。母親が毎朝作ってくれたものだった。母親の作った握り飯は、少しだけ化粧品の味がしていた。毎朝学校に向かうために朝早くから朝食を用意し、そこから弁当の用意をするのである。自分の身支度をしながら準備していたものだから、きっと化粧品の味が混ざっていたのだろうなと回想する。冷たくなった硬い米と、湿気をすった海苔。中には梅干しがあったり、唐揚げが入っていたりする。

 

ふとにぎりめしを食べながら、そんなことを思い出し、哀愁に暮れることがある。僕もいつの間にか子の親である。親になるとしみじみと残響を思い出しながら、生活をすることがあるようだ。そのため、にぎりめしは僕にとっては記憶の伝達装置なのである。

 

まった今度をおっ楽しみに~。ばぁい。