シン・春夏冬広場

楽しいことになんでもやっていこうっておもってますぜ。

書評をするとなんだか話し方がかっこよくなる

f:id:bluebunny666:20211030222756j:plain

攻殻機動隊STAND ALONE COMPLEX 26話より

攻殻機動隊笑い男と、草薙素子の対話のシーンがある。2人は電脳という脳をPCのように外部環境と接続した状態で、会話を行うというものだ。将来的にはそういった世界が来る可能性はあるが、このシーンの会話で、本の内容を引用しながら、両者が考え方を述べ合うシーンがある。

かなり昔のアニメではあるのだが、僕はこのシーンが非常にかっこよく映った。自分の考えを述べるとき、1番問題になるのはなんだろうか。それは自分という人間が、どの程度の知識の上に考えを構築していたのかということだと僕は考えている。

 

例えば、皆さんからみた僕という存在を、皆さんはどの程度信用に値するものだと考えているだろうか。僕だって人間だ。間違えることはあるし、嘘を書くこともある。勘違いという部分もあるだろう。それ以前に僕という人間が、どれだけの生活環境に身を置き、どの程度信頼に値する発言を行ってきたかということは皆さんは理解することが出来ない。インターネットリテラシーに関係してくるが、こうした僕と皆さんとの信頼関係は正直言ってないに等しいと考えている。

 

つまり僕がどれだけ皆さんに信頼してほしいとしても、僕という人間の発言や、これまでの行いから皆さんは僕を判断することが出来ない。僕がこれまで書いてきたブログの内容からこの人はどれだけ信頼のある発言をしているかを類推する以外に方法がないのである。

 

しかしだ、僕は信頼のおける人間ではなかったとしても、より信頼がある人たちが世の中には存在している。それは作家だ。すでに彼らは自分の考えを構築して、確立し、その問題を文学的表現の中にちりばめ、読者、出版社などから確固とした信頼を得ているわけである。

 

自分の発言の確からしさを証明することは難しいが、引用元の確からしさを証明することは簡単だ。そこからの引用したものをベースとした発言は信頼がおける。もちろん悪意のある発言をする場合もあるから、ある程度は読者の方に理解力を求められるのは仕方のないことである。お互いにだまし、だまされないように勉強していく必要がある。

 

話を戻すと、引用することは自分の信頼を高める作業であり、自分の発言の根拠を提示する行為である。オリジナリティというのは神の啓示のごとく、発想ができるものなどまれであるため、誰かの発言のオマージュだろう。そのため、本の引用をするなど邪道だと考える必要はない。むしろ自分の発言の確からしさや、根拠をそこまで説明することなく、受け入れてもらえるツールだろう。そのため出版社や編集者、作家という職業はなくなることはないと想像している。

 

最近のことなのだが、この書評というのをよく行っているため、僕の会話には深みが出てきた。これがまたなぜそんなことが出来るようになったのか不思議であるのだが、書評によって本をよく読むようになり、その部分を抜粋して説明し、文章の内容を理解し、そのうえでブログに書いているためだと想像できる。

 

僕の会話は少しずつであるが、攻殻機動隊のシーンのようになってきた。それがわかってちょっとだけ誇らしかった。ただの自己満です。すんません。

 

 

 

まった今度をおっ楽しみに~。ばぁい。