シン・春夏冬広場

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すべてを網羅する都合の良い理論などありはしない

何かを網羅的に説明する都合の良い理論はこの世に存在しない。現実世界は複数の事象が複雑に絡み合い、互いの相互作用から説明しがたい様相をしめしている。

 

僕らはこの現象をひとつひとつ説明できる理論に分解して、ひとつの塊としての現実を複数の説明可能な理論で、再構築している。それも説明に必要ない事象をカットし、ノイズを除去し、校正を行なってから再構築している。

 

そのためありとあらゆる現実は、カットされフィルターを通され、何かの尺度に当てはめられたものが、表世界に出てきている。ニュースや新聞なども発生した事象である事実と、必要部分を吸い出した考えを表明しているに過ぎない。そのため常に批判が発生するし、衝突も起こる。批判や推敲が発生するのは、正しい自浄作用だと考える。完璧なものなど存在しないから、理解不足や説明不足は必ず発生する。完璧を求めたら何も前進しない。だから、批判や推敲は発生して当然といえる。しかし、不足部分を補ったとしても、理論は完璧にはならない。

 

2つ問題がある。ひとつは立場上認められない批判で、もうひとつはカットしてはいけないものをカットすることである。批判を受けたとしても、自分が置かれている状況や立ち位置から、正しく聞こえようと認められないものが必ずある。その場合は議論し、妥協点や折り合いをつけなければならない。いわゆる政治である。前者は生きている上で必ずその人の生活環境、収入などの違いから残念ながら決まってしまうもので、折り合いをつけねば解決しない。そのためには、色々な情報収集を行って、まとめてゆかねばならない。

 

後者が1番の問題で、そもそも考えねばならない枠組みを無視または、偏見により削除し、間違った立ち位置での理論構築をした場合である。わかりやすくは、ジェンダーの問題や貧困の問題が該当すると言える。こうした問題は、社会システムの基盤を揺るがす事件であるし、いずれ解決しないと結局は全ておしゃかになる。最大公約数的だが、取り組まねば説明できない現実が残るだけだ。

 

批判や推敲は前進的でなければならない。否定なら猿でも出来る。どうしたらより良いのか、不足しているものは何か、理解不足は何かを表明し、そこに対する補足だったり、追加情報が与えられることで、情報の精度は高まっていく。受け取る方にも前進的な内容であれば、メリットが大きい。そのため、批判や推敲を受け止める必要性はおおいに感じる部分がある。

 

1番の問題は完璧に物事を説明する理論がないという前提にたつこと。そして、自分の立ち位置が必ず誰かと相容れないものであることを理解した上で、理論の構築を行うこと。マイノリティであったとしても、マイノリティだからこそ新しい価値観を提供してくれると考えられる。そのため、完璧とはいかないまでも、だいたい正しい理論を構築するのには、色んな人が前進的な議論をする必要がある。

 

 

まった今度をおっ楽しみに~。ばぁい。