シン・春夏冬広場

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言葉は最大の発明だし最大に奇妙な道具だ

はてなインターネット文学賞「わたしとインターネット」

 

昔から考えていたが、言葉には不思議な力がある。そんな判で押したような書きはじめだが、言葉という道具は実に奇妙だ。

 

ものに形を与える、ものに名を与える、そのとたんにものは名前以上の意味を持ったりする。昔は記号的意味しかなかったんだろう。りんごはりんごでしかなかった。

 

ただ、僕らはりんごと聞くと連想するようになる。ある人は青々としたりんご。ある人は赤々としたりんご。ある人はジャムやアップルパイ。ある人は聖書や物理を思い浮かべるだろう。それだけで、りんごは単体としてのりんご以上に宗教的、物理的意味合いも含むことになる。

 

こうしたものは別の扱われ方をしているが、理学的にも明らかになっている。皆さんもよく知っているSEO策と呼ばれているものだ。これは言葉間の近しさや、よく一緒に扱われるものが側に配置されるアルゴリズムで作られている。ワードクラウドと聞くと想像しやすいと思う。細かな原理は理解できていないが、意味合い的には近いと思う。

 

言葉は少しずつ記号的な点の意味から、連想による連続的な意味を持ち始めているんだと思う。

 

想像してみて欲しい。僕があなたの心を読むことが出来ます。とあなたに語りかけた時にあなたはなんとおもうだろうか。

 

ふーんそうなんだ。凄いねとか、じゃあ僕の考えを当ててみてよとか、馬鹿いってんじゃねーよ出来るわけねーだろとかだと思う。これは細かな意味合いを議論したいわけではなくて、僕は質問を投げかけることによって可能性を消した、あるいは考えを固定したのである。

 

何もわからない、何を考えているかわからない状態から選択肢を3つほどに減らすことに成功した。これは言葉には相手を制限したり、限定したりする力が備わっていることを意味している。

 

記号的な意味合いから連続に扱うことで、行動を制限することに成功したのである。このように言葉には発したとたんに、概念を固定する魔力が備わっていることがわかる。

 

交渉というのは陣取り合戦だ。こうした言葉の円環を巧みにあやつり相手の行動や言葉を遮る。直接的な言い方を避け曖昧な表現をしながら、自分の交渉の範囲を浮かび上がらせるのである。

 

気をつけなければいけないのが、僕はそう言った曖昧なニュアンスの中にある互いの範囲という言い方を理解するのが苦手なんだが、言葉を額面通りに受け取るのではなく、範囲で理解する必要がある。欠けている部分を補う必要もある。なかなか骨が折れるし、政治家の発言にいちいち反発しているところをみると、多くの人が苦手なんだと理解できる。

 

もうひとつ取り上げなくてはいけない。言葉はそれ自体が伝送する能力を持っていることだ。元々記号的意味合いが強いので当たり前なはなしだが、これがかなり扱いが難しい。単語を伝えるだけならいざしらず、文章、特にブログやメールなどは非常にやっかいだ。

 

というのも、メールをした時なんだが、端的に言葉を表現して、無機質なメールを送ったところ相手に激怒されたことがある。なんの気もなしに送ったのだが、読み返してみると相手を糾弾しているかのようにも受け取れた。またいつもぽわぽわしていて優しい人がメールの時には馬鹿みたいに厳しい、まるで上官が部下に指示するようなメールが来て仰天したことがある。すぐさま電話で、何か不都合でもございましたでしょうかと、その人に言ったこともないような話し方をしたことすらある。言葉はそれだけで、強烈に情報を伝達してしまう。しかし、そこには感情やニュアンスと言った副次的な要素を削ぎ落として伝わってしまうんだと思う。ニュアンスを文字で伝えるのは手間だ。物凄い文字数になる。言葉には伝達するとてつもない力はあるが、不完全な状態で、馬鹿みたいに伝わってしまうことを注意したい。

 

まとめると言葉は記号的な要素として発展してきたが、相手の行動を制限する能力や不要な要素を削ぎ落とした状態で馬鹿みたいに伝達する能力がある。線や面、距離を縮める道具になって来ているが、操る時には充分配慮して、使わなければ関係を壊しかねない魔力を秘めている。

 

なぜこんな意味合いを持つようになっていたのかは最大の謎で、そりゃ色々使っていたり、連想してるんだから当たり前だろというのは簡単なんだ。なぜそうなったのか、なぜそういった能力を備えるに至ったのかを考えるのは楽しいと思う。個人的にはここにはミームの考え方が潜んでいるような気がする。気がするだけで外れている可能性もあるが、そんな気がしてならない。

 

まった今度をおっ楽しみに~。ばぁい。