シン・春夏冬広場

楽しいことになんでもやっていこうっておもってますぜ。

コモナリティーという海の中でアヴァロンを見つけることができるか?

はてなインターネット文学賞「わたしとインターネット」

 

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Fate/stay nightより引用

僕らは不完全な今を切り取ることでしか、自分を表現することができない。結局はどこかで誰かが見たような判を押したように見えるのなら、それは僕がまだ何者にもなれていないからだと思う。理想的な自分を追い求めはするものの、今できる精一杯と今の自分のありのままを表現することが、周りの人へのメッセージであり、将来の自分に向けた手向けだと考えている。

 

コマンドラインをテキストと拡大解釈するなら、テキストは今やあらゆる旧態依然とした社会を駆逐し始め、新しい世界を構築し始めている。というのはまやかしで、中心がテキストに置き換わっただけで、世界の様相としてはたいして変わり映えしない。これまでの産業構造は過去の中心産業がそうであったように、縮小するものの維持され、大幅に儲かる産業が変わったに過ぎない。今回大きくかわったのは結局僕らだ。

 

しかしながら、何者でもない自分が何者にかなれるような自由な世界が開けたのも事実であり、そうした中で活躍していきたいと考えるようにもなってきた。そのためにはより多くのことを学んでいかなければならないと感じている。

 

高校生のころのインターネットは特に便利ということはなく、エロサイト※1を巡回したり、意味のない単語を調べたりするだけのものだった。特に必要ということはなく、そうした距離間のあるものだったし、いまよりずっと使いにくかった。設定も難しく、理解も乏しく、ほかにネットにつながるものもなかったので、調べるには専門家の力が必要だった。パソコンもマインスイーパーやソリティアをやるためのゲーム機だった。携帯もPHSだったし、その2つは分かれていて、僕らの生活の中にネットというものはなかった。

 

※1この時のエロサイトは詐欺サイトやウィルスサイトに誘導するいつまでも目的のコンテンツにたどり着けない不親切なものだった。それでも探し続けてしまう不思議には出会った。ただ今のサイトのあり方は当時のエロサイトそのものでもある。

 

大学生の時には論文や書籍を検索したり、プログラミングの授業があったりして、テキスト【プログラミング】はなんと面倒で、なおかつわかりにくいものなのか。結局なにがしたいんだってなってしまった。プログラミングを使ってものを動かしてみたら、違っていたんだろう。当時の僕を見つけたらはたいてやりたいが、その時に少しでも興味を持てていたら、いまごろもう少し違った将来があったに違いない。どちらかというとこの時はFortranを中心としたような、今のAIのように専門的なことをやらせるプログラミングが多く、教科書的で、汎用性の乏しいものが多かった。そのためあまり将来性を感じなかった。今思えば少しでも探したり、調べたりしたらと思う。

 

どんどんネット環境は使いやすくなり、そのうちVOCALOIDが出てきた。2ちゃんねるニコニコ動画を楽しむようになり、目覚ましく成長しているのを今では実感できるが、このときまだ別のことに夢中になっていた。この時よく見た動画のハチが、幼いころの米津玄師と最近になって知って驚愕した。モナーやマイアヒなんかもこの時はやっていたように思う。

 

ネットゲームもこの時に始めた。レッドダイヤモンドだかそういったタイトルだったように思う。ゲームは一通りやっていたが、ネット上でほかの人とコミュニケーションができるだけで、ここまでのめりこむとは思わなかった。チャット機能がついているだけだった。この時もう少しそのことをよく考えれば、別の道が切り開けたかと思うが、そういったものはやはり後になったからわかるものなんだと思う。後だしじゃんけんでなんでもできるのはいつだってそうだ。そののめりこみ具合に恐怖し、家族との衝突が絶えなくなったため、問題があると考えネットゲームは辞めてしまった。

 

大きく現実とネットの世界が混ざり合うようになってきたのはIPoneが登場してからだと思う。様々なコンテンツであふれかえり、新機種を求める人で長蛇の列ができた。TwitterFacebookが登場し始めた時期でもあったように思う。マークザッカーバーグの映画も見た。すごくおもしろかったので、よくよく調べてみると自分とほぼ同じ年代だと気づき驚愕する。僕はこの世界に乗り遅れてしまった。いまでも遅れている。いまさらブログでテキストを書いているんだから。うける。

 

このときから少しずつだが、確実に世界が変わり始めた。とはいっても僕らをとりまく環境の変化や心境の変化であって、世界そのものの変化ではない。シェアリングを行うようになって、みんながいいねやリツイート、バズを狙うために動き出した。インスタグラムをはじめ各コンテンツで様々なアウトプットを行うように求められ、インスタ映えを目指すために若い女性も男性もネットという環境にどっぷりつかっている。僕がちょうどネットゲームをやった時よりさらに深く潜っているように見える。少しずつ現実世界をむしばみ始め、わずか6インチの世界に自分を求めるようになった。広大な自分の目の前に広がる世界を見向きもせずに、ひたすら6インチの世界を眺めている。いまでも眺めている姿をよく見る。

 

ありとあらゆるものが即座に共有され、今日私が知ったことを明日は彼が知っている。共有され、共通認識が生まれた時点で彼は私になる。

 

アウトプットすることに追い立てられた哀れな羊たちは、本当は何がしたいのか。何を自分がやりたかったのか、何者になりたかったのか考えるゆとりも個性もなくし始めているように思う。

 

そうしたことが悪だと糾弾したいのではない。世界のそうした変化なのだから、その中でうまく付き合って生きていくしかない。そうした状況に気づく必要があるということと、適切な距離と時間のゆとりが必要だと思っている。いまやありとあらゆるものが白日の下にさらされ、不明なものは少なく【細菌とかはいまだに未知だが】、あるものは都市伝説に追いやられ、あるものは物語になり、あるものは消滅した。そんな中で僕らは何を頼りに妄想すればいいんだろうか。考える時間が必要だ。

 

こうした中で、昔見た理想郷が自分の胸を焦がす。僕はあそこに向かいたかったんだ。僕が向かいたいあそこに行く手段を見つけなくてはいけない。あがいて、もがいて苦しんだ先のオケアノスを超えたさらに先にあるアヴァロンに果たしてたどり着けるだろうか。それとも伝説と同じように奈落の底に落ちてしまうのだろうか。舵を切らねばそこにはたどり着けない。

 

以下経緯なども含めて紹介。時間があれば以下も読んでみてもらいたい。

 

簡単なことに気づけたのが以下の部分に触れられている。僕らは結局コピペのような初歩業だけど、誰でも使えるこういったものを目指さなくてはいけないんだと思う。

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結局自分と他人という校正作業に時間を費やすのではなくて、自分のために時間を使っていくべきだと思うが、僕らはいつだって校正作業を知らず知らずのうちにやっているもんだと思う。

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最近とくに思うことだけども、自分の年を感じ始めたし、世の中を変えている人や影響を与えている人たちとの並々ならぬ隔たりを感じる。一般的な感覚すぎる。どういったことにこだわっていくべきなのか探り探りだが、行動を起こしていきたい。

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まった今度をおっ楽しみに~。ばぁい。